昭和四十三年六月十日 朝の御理解


御理解第四十二節 これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。


 信心の流動感、または生命感。流動感というのは、流れ動くと書いてある。信心の流動、感は感心の感。生命は命ね。生命感。動いておるということ。信心は釘付けではないと仰るのはそういうこと。何時も動いておる。命のある限り、命の営みと申しますかね、それが繰り返されていくというように、そういうような、私にとっては大変難しい言葉を今日は頂いたんで、どういうようなことだろうかとこう思うんです。
 皆さん、どういう風に感じられますか。
 信心は何時も動いておらなければならないと、生き生きとしておらなければならないということには違いないと思うですね。
 信心の流動感。又は、生命感。お互いの信心が果たしてね、流動しておるだろうか。お生かしのおかげは頂いておる。こうしてお参りはさせて頂いておる。と言うことだけじゃないのですね。と思うんです私は。何十年信心しておっても全然、流動感とか、生命感とか言う表現には、凡そ縁の遠いような信心をしておる。只、何十年間信心をしておりますというだけ。その証拠には動きがない。信心に。信心が一つも進展しない。所謂おかげが進展しない。何とはなしにばらばらである。断片的である。かと言うてやっぱり信心は続けておるしお参りはしておるし、一々お取次ぎを頂いてお願いをしておりますから、おかげは受けておる。やっぱ神様のおかげと思いよる。けれども、信心が成長しないと同時におかげをも成長しないということ。
 そこで私、今日は信心の生命感について、又は流動感についてお話をしたいと思ったけれど、こちらは、どういう、その真意が分からない。まぁ、生き生きとした信心をせよということに違いないけれども、それだけではぴんとこない。そこで教典を開かせて頂いた。そしたらね、御理解四十二節を頂くんです。
 御理解四十二節「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」とあります。
 「ははぁ、今日の御理解はここだな」と思ったんです。例えばですよ。信心をしておるけれども、どうしてこんなにおかげを頂ききらんじゃろうかとか、どうしてこういうことになってくるのであろうかという事になったら、信心はもう止どまっておるとはっきりここに言うておられます。何十年信心したっちゃ同じですね、こういう思い方をするなら。止どまっておるということはどういうことかというと、もう止どまっておるのですから流動感がない。流れて動いていないのです。生命感のない信心なんです。
 だからこれは、これほど信心するのにどうしてこういうことが、と言うのではなくてね、ここはこれと反対のことを思うてもいいですね。これほどのおかげを頂きながら、私どもが段々信心が分かってくるとあれもおかげ、これもおかげと感じてくる。痛いこともある、困ったこともある。難儀を感ずることもあるけれども、思うて見ると、それでもあれもおかげ、これもおかげだと、これほどのおかげを頂いておるのにこれで一体よいだろうか。
 私はね、お道の信心の進展というかね、所謂流動感ですね。というのは、そういう考え方の中から、生きて、動いて、流れに流れて、流動していくという。限り無く信心が進展していくというのはそういう考え方にあると思うんです。
 これほどのおかげを頂きながら、ね、ここは。と言う風に頂いてもいいですね。これほどのおかげを頂きながら、果たしてこれでよいであろうか。
 そしてこれは、私自身の信心を思うて見るのでございます。
 ここでは、例えば椛目で人が助かるようになって十八年間。それ前の引き揚げて帰ってからまぁ二十年になりますか。からの信心というものが、何時も流れに流れ切っておるという感じですね。いつも生命感でビチビチしておるという感じですね。ですから、やはり雨が降ることも風が吹くこともある。これでもう椛目はしまえるのじゃなかろうかというごたる大嵐に遭うようなことも数回あった。けれども、そういう度におかげを受けて来たことは事実です。そこを只おかげを受けたじゃなくて、おかげを受けて伸びていく、その度に。何かがある度に、形の上でいうなら一部屋づつ増えていっとる。お広前ならお広前でも。さぁ向かえの土地にまで建てなきゃならんように大きくなっていっておる。もうどうにもこうにもできない。あの広い駐車場も、もう置けない。そしたら合楽建設になったんですね。皆さんがご承知の通りです。
 これはね、実にすばらしい一つの流動感というものがね、私どもの信心にあったからなんです。同時に、本当にこれほどの、どういう難儀な問題が起こってもです、難儀な問題は難儀な問題としてですこちらを一つ見てみると、これほどのおかげを頂いておるというおかげがね、たくさん感じられた。ですから、何時も私の心の中に感じられておったことは、これで良いだろうかということであった。 毎日お日参りができておる。そのくらいのことで事済んだらもう、金光様の信心はおしまいですよ。これだけのおかげを頂きながら、これで良いだろうか、これで良いだろうかと何時も思い、明け暮れておらなければいけん。そしてそこに何かがあるときに、何かのチャンスを頂いたときに、何時もこれで良いだろうかこれで良いだろうかと思うておるから、パッと次の信心に飛躍していくことができるのです。
 もう限りがなく信心は進展していくのです。それに、例えば皆さんの信心というてはいけないけれども、銘々、自分の胸に手をおいて、自分の信心を考えてご覧なさい。何かがあるときに一生懸命になる。ちょっとおかげを頂いたと見ると、もう朝のお参りすらできんようになる。なんとかかんとか言い訳するようになる。口実をつける。どうしてこんなに何時までもおかげ頂ききらんじゃろうかということを心の底に思うておる。それはもう信心が止どまっておるのですよ。信心が止どまったらおかげももう止どまっておるのですよ。ですから、堂々回りで、只お願いをしておかげは頂いておるけれども、何時も同じ事ばっかりしておる。それでいて信心はやめ切らん。いわゆる生き生きとした信心を求められるのはそこにあると私は思うんです。
 只今私が申しましたこと。これほど信心するのにどうしてこういうことがと言うことも、やはり思う人があるだろう。信心してどうしてこういうことが起こるだろうかと思うような人があるだろう。そういう考え方では信心はもう止どまっておるということ。それとは反対に、これほどのおかげを頂いておる、思うて見れば思うて見るほど信心頂いておるということが有難い。と何時も思い明け暮れておる。ですから、私どもが「これで良いであろうか、これで良いであろうか」「私の信心はこれで良いだろうか」という、何時もそういう思いに明け暮れておかなければならないということ。それで、例えば御理解なら御理解を頂いてホッと気付かせて頂いたら、そこから信心が飛躍して来る。何か機会が有ったらもう、次の新しい信心に進んでおる。所謂変転極まりがない。流れに流れておる。だから、流れてくるものはまた、尽きぬほどの流れに合うことができるのである。流れに流れ切っておる。だから大本からもやはり流れに流れてきておる。それを、そこに堰を止めておるもんですから、上の方からもピシャッと流れてくることが止まってしまう。ですから、お恵みの水がここにあるにしても、ちゃ-んと溜り水のようなもの。だから少し干天が続いたら、もう底が見えるようになってしまう。でなかってもその水は腐ってしまう。澱んでしまう。信心が澱みに入ってはならない。
 昨日、六月のここの新聞の原稿を見てくれというから、見せてもらいました。この頃から頂いた「信心は家内に不和の無きが元なり」というあの日の御理解を掲載しようという訳なんです。見出しに「おかげの元をねらえ」という題が出ておる。見出しに。「おかげの元をねらえ」。それを元という字が書いてある。それをこれではいけないというので素という字を、味の素の素という字を書いた。「おかげの素をねらえ」。こりゃまるきり味の素のごたる。そんなことじゃいかん。「おかげの素」じゃいかん。言葉も弱い。素という字を書いたり、元という字を書いたり。だからこれに大の字を付けなさい。大の字を。「おかげの大元をねらえ」ということにしなくちゃいけないということにしました。おかげの大元をねらわなきゃいかん、おかげの大元を。大元の元であるとか、素ではいかん。 どうしておかげが頂けんじゃろうか。おかげの大元を願っていないからなんです。
 私は、そのことについては、最近善導寺の久保山のことを何時も例に言うんです。久保山先生がまだ御在世の頃から、何時も私言っておるように、「先生あんたは言うならここの長男坊よて、だから、あんたが一番口におかげを頂かなければ他のものは、後がつかえとる。あんたが先ずおかげを頂かなければ、あんたが一家が先ずおかげを頂かなければ」。何時もこれを言うておったんですけれども、その通りに、現在では、私は合楽では現在の久保山がおかげの受け頭だと思うですね。言うならば、おかげの大元を、完璧とは言いませんよ。けどおかげの大元を掴んでいますもの。
 信心は家庭に不和の無きが元と言いますのはね、家庭が円満にいっておるといった、そんな生易しいものじゃないです。信心でいうところのおかげは、家庭に不和の無きが元というのは、家族中のものが、集う度に、集まる度に「どんなに考えても善導寺の久保山こそ、合楽がなかったら今頃は、善導寺の久保山はどんなになっていたか分からんよ」と、例えばお母さんが言うたら、子供達まで、嫁達までが「そうどこじゃありません」ということになっておるということなんですよ。ね、兄弟が四人おります。東京に二人行ってる。こちらに二人行ってる。長男がここの経理部長をしている。三番目が青年会長をしている。東京のほうでは、皆さんがご承知の通りです。もうくる度々に、親先生有り難うございます、親先生有り難うございますが、手紙、便箋一枚に五辺ぐらい書いてある。ですから三枚書くと十五辺、「親先生有り難う」が出てくる。もう読みながら感動する。もし親先生がなかったならば、現在の久保山はないと、これからとても信心を抜きにしたら相済まんとこういうことです。 今朝も、何時も三時半にここへ出てきますから、まだお広前に誰も出てきておりませんでしたから、電気を点けるためにお広前に出ましたら、やはり久保山のお母さんが一人、雨の中を、恐らく自転車にも乗りきんなさらんとじゃけん歩いて参って来とる。毎朝そうして繰り返されておる。夜の御祈念には必ず参ってくる。近いところとはいいながら歩いて来れば、やっぱり小一時間だんかかる。一時間以上かかるですね、女の足で歩いてくるなら。しかもそれがね、子供やら、嫁御やら、孫達に至るまでそれなんです。
 ですから、久保山の上にならどれだけのおかげをやっても、もう大丈夫じゃろうという気がするんです。どうでしょうねぇ。これにですよ。「本当におかげ頂いた、おかげ頂いた」と、なら嫁御なら嫁御が「お母さんなおかげ、おかげち言いなさるばってんが、こりゃ私どんが働いたけんでこげんでけとるとたい」というのが一人、言わなくても居ったらそれでもうおしまいだということ。息子が、「神様、神様のおかげちいうばってん、私どんが一生懸命働きよるけんでばの」ち言うたらそれでおしまいなんです。家庭に不和の無きが元というのはね、もうすべてが信心で解決する家庭を言うのです。例えば、久保山の家にでも、何時も親子が拝み合うてばっかりおれないこともある。そりゃ不平不足を言わにゃおられないこともあるけれども、その問題がある度に信心が飛躍しておることです。否、問題がある度に「それなら、親先生にお伺いして」ということになって、何時も信心によって、そこが解決されていきよるということ。
 これは善導寺だけではない。兄弟達が、東京におります子供達迄がそうである。どのような問題であっても、御神意のままに動こうという、家族中のものが、打って一丸となって、そういう気持ちになっておるということ。息子に言うばってん、「いやぁ、そげん神様神様と言う訳にはいけん」という息子が一人居ったら、もう家庭に不和があるのと同じことなんです。
 ですから、それほどのです、それほどの信心をどうでも自分の身の上にも、家の上にも頂きたいと願うなら、今のような信心じゃいかん。少しおかげ頂きゃもう腰掛けとる。一寸お参りができんと言い訳をする。そんな信心でね、今日私が言う、信心が止どまっているから、そういう結果になるのです。これほどのおかげを頂いているのに「お母さんこれで良いだろうか、これで良かじゃろうか」。例えば夫婦のものが話し合ってご覧。これほどのおかげを頂いているのにこれで良かじゃろうかねと子供と何時も話し合える雰囲気がなからなきゃいけん。そこで、これで良いとは思いません。所謂、自己を肯定しない生き方なんです。これで良いと思わない、これで済んだと思わない。いつもそれを思うておるから、そこに何かのチャンスがあるときに、ちゃっと、それなら信心を進めていこうじゃないかという、形の上にも、内外共への信心ができてくる訳なんです。
 毎日お参りしよるもんじゃけん。毎日これだけのお供えをしよるもんじゃけん。もうそれで事済んだというような信心なら、あなたの信心は止どまっとるとですよ。
 久留米の〇〇さんが口を開くと言うておられたように、
 「あなた達が信心しなさって何年になりなさるですか」
 「もう何年になります」
 「なら、何年前はいくらお供えしよんなさったですか」
 「百円づつ」
 「今は」
 「百円づつ」
 「損なら信心はいっちょん進んどらんじゃんの」と言うておられた。もう面からそう言よんなさった。
 だから、こういうことはですね。端的な表現ですけどその通りなんです。これはお供えのことだけじゃないです。心が、内容が、ね。去年が百円づつなら今年は二百円のお供えができるほどのおかげを受けとらなければいけないでしょうが。おかげを受けとらなければ。それだけ信心が成長しとらなければいけないでしょうが。
 流動感がない、生命感のない信心をしておるからそういうことになるのです。そこのところを狙うことが、私は信心のおかげの元とか、この元だけじゃいかん、おかげの大元を狙えということになって、信心は家庭に不和の無きが元なりというあの日のご理解を書くならばよかろうばってん。これじゃいかんと言うて訂正させたんです。
 お互いがおかげの大元を願わなきゃいかん。その大本を願うというところにです、信心が生きとらなけりゃ大元は願えない。信心が流動しとらなければ。生命感に満ちた、言うならばビチビチした信心なんです。どうしてこういうことができるであろうかと思えば、もう信心は止どまっておる。どうしてこういうことがという困った事ではなくてもです、これ程のおかげを頂きながらこれでよいだろうかと思よらんなら、もう既にあなたの信心は止どまっておるということになるのですよ。
 これだけのことができよる。これだけのお参りができよる。これだけの御用ができよる。それでもです、これで済んだと思わない、これで良いだろうか、これで良いだろうかと、明け暮れ思わして頂いておるような信心が、生命感に満ちた信心なんです。流動感の有る信心、だから、次のチャンスを、機会を得るとそれに向かって飛躍する。だから信心が進展していく。もちろんおかげが伴うて行くことは間違いがない。ね。
 「これはまだ信心が足りぬからじゃと思い。一心に信心していけば、そこからおかげが受けられる」そこで今朝の御理解を皆さん頂いたら「どうしてこんなことが起こってくるだろうか」とは思いよらんばってん。これで良いじゃろうか、これで良いじゃろうかと思いよらんならばもう止どまっているのと同じじゃから、今日からはそういう生命感に満ちた信心に思いを変えようということになってくる。そこから、初めて一心の信心というのができてくるのじゃなかろうかとこう思う。
 これはまだ信心が足らぬからじゃと一心の信心をして行けば、そこからまた、次の、今まで考えも思わなかった次のおかげに飛躍して行くのです。次のおかげが頂けるのです。そこからのおかげ。そこからのおかげを、だから願わなければいかん。今までの信心しよってから願うたっちゃつまらん。私どもの信心が一段と飛躍した、そこ、そこからのおかげを願うて行く。
 昨日、ここを六時に若先生を先頭に二十五名か、今度はもう、青年会の方達ばっかりで団体参拝しました。みんなここに集まってから御祈念さして頂いたときに頂きますことがね。「お繰り合わせを頂いてお参りができるのであるから」。時間的にもおかげを頂いて、金銭の上にも旅費の納めもできた。すべてのことの上にお繰り合わせを頂いて、只今から御本部参拝ができるのだ。「そのことを有難いと思うて、お礼を申して行けば、道中もお繰り合わせ。留守中もお繰り合わせが頂ける」という御理解じゃった。
 「どうぞ、留守のことをお願いします」だけじゃいかんのです。例えば皆さんこうして朝のお参りがでけた。このお湿りの中に、こうしてお参りがでけた。だから、今日のようなお湿りの中に健康のおかげを頂いておればこそお参りがでけたんだ。おかげで目が覚めたんだ。おかげで今日のお供えも出来るんだ。今日お参りができた。そのお繰り合わせを頂いたことを篤く篤くお礼申し上げておったら、今日一日は絶対お繰り合わせの中におかげが頂けれるですよ。金光様の御信心とは、そういう信心だと思う。けれど、お礼を言うことすらが分からなかったんじゃいかんでしょうが。これ程信心するのにと自分は思うとるのに。ね。それが、生命感、流動感が、生き生きしたもの、ビチビチしたものがないとです、そういう心が湧いてこんのです。
 この四十二節の御理解をこうやって頂きましたらね、改めて、ははぁ、今朝私がお知らせ頂いた「信心の流動感」「信心の生命感」と言うことが、なぜ流動感に、生命感に満ちた信心でなければ行けないかということが皆さん大体分かったと思うですね。そして、お互いの信心が止どまっておりゃせんか。「これ程信心するのにどうしておかげ頂けんじゃかねえやち」と例えば夫婦で話しよるときにはもう、自分たちの信心が止まっておると悟らにゃいかんとですよ。
 これ程のおかげを頂いておるのに、これで良かじゃろうか。これで良かじゃろうかというような思いがないならば、もう既にあなたの信心は止どまっておるとですよ。とどまっとったんじゃおかげは、やはりそこに停滞してしまっておるのですからね。止どまっておるですから。塞き止めておれば上のほうからも入っちゃこんですよね。流れに流れておらなければいけん。お互いがですね、どうでも一つ、おかげの大元を狙うての、言うなら信心にならしてもらう。それにはまず、私自身がそこのところを分からしてもらうて、それが家内にも、子供にも、家族中のものに伝わる。しかも、家族中のものが、流動感に満ちた、生命感に満ちた信心ができるようになる。そこに、おかげの、言わば大元である、大元ができるということになるのじゃないかと思う。
 どうぞ、そういう信心を願っての信心にならなきゃならんですね。どうぞ。